【正義の問題?】”バス停まで歩けない”根本的な問題を見つけることが大事だと思う。

こんにちは!やまけん(@yama_architect)です。
YamakenBlogでは、建築や都市計画、不動産に関して業務に役立つ豆知識を発信しています♪

今回の記事は、都市計画上重要な公共交通に関して、近年、課題だなと思うところを書いています。




バス停まで歩けない人達

「バス停まで歩くことができない」、「バス停まで1km以上離れている」、「バス停まで登り坂があって歩けない」

一度は、そのような言葉を聞いたことはありませんか。

近年、多くの自治体で免許返納を促す施策や高齢者の足の確保を図る観点から、公共交通に関するアンケートが行われており、その結果として、「免許返納したいと思った時には既に数百メートル」も歩けない健康状態となっており、時既に遅し、そもそもバス停まで歩けない人の割合が多いという結果です。

だからこそ、運転に不安を覚える前に歩く生活が必要になるわけですが。

一般的にバス停の圏域は300mとされていますので、300m歩くことができないと路線バスを利用することができないため、バスよりも割高なタクシーを利用することになり、タクシーが運行していない地域であれば家族や友人の送迎が必要になると思います。

自治体によってはデマンド型交通(予約型移動手段)といってタクシーも成立しないような地域において、住民の交通を確保するために公共事業として行っています。

自ら交通の不便な地域に居住しながら、自分が運転を出来なくなれば、交通の足は確保するべきだとする考え、みなさんはどう思いますか?

それぞれ考えがあると思います。

ただ確実に一つ言えることは、移動総量が減少すると街中での消費が低迷する。

高齢者が利用する施設としては、医療や商業(スーパー、飲食など)が中心となりますから、1日あたりのトリップもそこまで多くはないものの、今後、人口減少や高齢社会が進んでいく中においても、まち中でお金を使いたいと思う状態がつくられていないと、都市全体としての消費活動が低迷していくのは明白です。

地方だと目的地すら無くなっているケースもあるので、移動と言えば医療施設くらいしかないケースもありますけど・・・

話は戻しまして、バス停まで歩くことができないからなんとかして欲しいという要望や考え、みなさんはどう思いますか。

交通の足の確保に正しさは必要か?

  1. 交通弱者を救う観点から最低限の交通を確保しなければならない。
  2. 居住地選択の自由がある中、不便な状態をつくり出した本人が悪い。

一つ目の考え方ですが、最低限度の生活を営むために交通を確保しなければならないとするものです。(後ほど、説明する交通政策基本法に通ずる考えです)

全ての人の足を確保するのは現実的に困難ですから、多くの人は公共交通が便利な地域に移住・住み替えるか、自己負担を持って交通の足を確保しないといけないです。

・・・極端な話、山間部のバス停もないところで一人で暮らす人のために、年間何百万円もかけて交通を確保する理由があるとは言えないですからね。

一方で、市街化調整区域で農業をされている方は市街化区域までの距離が遠い場合などは、農林漁業に従事しているために市街化調整区域を選択せざるを得ない状況から、最低限の足を確保する必要があるように思います。

二つ目の考え方ですが、主に市街化区域の縁辺部(郊外)や都市計画区域外などの公共交通が不便な地域に住んでいる方が多いかなと思います。基本的に自己責任が内在しています。

自らそこに住み(親から相続したとしても)、交通が不便な地域である以上は不便な状態を受けいれないといけない。自家用車を手放す状態になる前に、日頃から公共交通を利用するライフスタイルに変更しないといけないとする考えです。

つまり、自己責任で何とかしなさいとする考えです。

両者ともに正義を有している状態です。

自家用車が発展する前はみなさんどうしていたのか。

バス停や駅まで歩くなり、バスや駅が無ければ何キロも歩いていたりと、その状況に合わせていました。

けれど、現代はどうでしょうか。バス停まで歩くことが出来ないなら、玄関から目的地まで運ぶドア・ツー・ドアの輸送が必要になっているわけです。

人それぞれ持病や老化現象は異なるので一概に言えませんが、バス停まで歩くことが出来ない理由が、暴飲暴食・不健康な生活を続け、普段から自家用車に頼って生活しており、その結果としてバス停まで歩くことが出来ない状況になったら??

果たして、税金を投入してまで交通の足を確保する必要があるとする考えに賛同する方はどの程度いるでしょう。・・・今の日本では、自己責任とする考えが多くなりそうな気がします。

居住地選択の自由はあるものの、公共交通が使える状態にあったにも関わらず自己の責任によりそのような(バス停まで歩くことが出来ない状態になってしまった)状態になってしまったということ。

日本の地方で交通の足を確保していくには、これまでの意識・マインドを少しづつ変えていかないと、交通の権利を保障していくのは非常に困難な道にように思います。

交通政策基本法における国民の役割は?

交通政策基本法(平成25年法律)という日本の交通政策に関する基本的な法律があります。その中で、「国民等の役割」として次のように規定されています。

簡単に説明すると、国民は、国や自治体が行う交通政策に協力することによって結果的に移動権(交通権)が保障されるといったものです。

この交通政策基本法は、欧州のように明確に国が交通権を保障する旨が規定されておらず非常に曖昧です。そのため、自治体の裁量によって移動権の考え方が異なってくるのではないかと思います。

公共交通といいながら非公共性を持つべきものとして国民自らが思っているため、移動権の保障というと、自家用車を持たない・自家用車を運転することが出来ない交通弱者を救う交通だと認識している人が多くいるのもこの結果です。

(国民等の役割)第11条
国民等は、基本理念についての理解を深め、その実現に向けて自ら取り組むことができる活動に主体的に取り組むよう努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する交通に関する施策に協力するよう努めることによって、基本理念の実現に積極的な役割を果たすものとする。

交通政策基本法(抜粋)

まとめ

バス停まで歩けないとする根本的な問題は、バス停まで歩くことが出来ない状態まで車に依存してしまう人と都市構造の両方にあるように思います。

どちらも正しい選択ではないですが(あくまでも現代において)、どのように生活を歩むのかは人の自由です。誰かが強制力を持って高齢者が自家用車を運転し続ける行動を制限することは出来ないです。

ただただ目先の幸福を追求し、将来を見定めずに生活してしまった結果です。
(事故や持病により足の確保を保障する人達を除きます)

また、将来を考えれば、歩いて暮らせる状態にしておかないといけないのは明白であり、バスや鉄道の利便性とは離して考えないといけないと思います。

利便性と交通権の関係は難しいですが、誰もが1時間に1本のバスよりも1時間に6本あるバスの方が使いたいと思うのは明白ですが、そこに公共性を有することを許さない国民性がこの国の公共交通の利便性を低下させている要因になっていることも一つとして考えられます。

交通の最低限の保障は「国民皆保険」と同じであり、国民全員が加入する保険と同じ分類(つまり福祉)で捉えるようにならないといけない時代に来ているように思います。

最低限の保障と利便性の確保は別保険として認識しないといけない。

とはいえですが、少なくとも将来が不安だという方は、まちなかへの移住を考えていかないと、多様な交通手段の選択機会すら失われることになるため、結果的に健康寿命も縮めていく結果にもつながります。

いずれにしても、交通権の確保に向けては、行政や友人、家族などの自分以外の他者に委ねるのではなく、自分で選択する時代に来ていると思います。

ということで以上となります。それではまた〜〜♪